前回の続きです。
というわけで、前回に引き続きアニガサキの感想やら考察を垂れ流して行こうと思う。
今更言うまでも無いかもしれないが、こじつけだろってレベルのオタク特有の決めつけが多いので注意だ。まあこの点に関しては、前回の記事も読まずにこの記事を読むオタクも居ないだろうし、問題はないだろうけれども。
まずはじめに、このアニメにはいくつかテーマがあると思っている。
具体的には
- やりたい、なりたいと思った時に夢は始まる
- 自分の本当の気持ちを我慢してはいけない
- 進み始めたのなら止まってはいけない
- 見ている夢は違っていても一緒に進むことは出来る
と言ったものだ。
上に書いた事はこの先ちょいちょい引っ張ってくるので、記憶の片隅にでも置いといて欲しい。
さて、アニガサキが非常に丁寧に作り込まれたアニメということは前回の記事でも書いたことだ。
このアニメはとにかく、制作側がアニメ作りに慣れてるな、と思う部分が多かった。
アニガサキにはいわゆる「特殊ED」が存在しない。どの回でもOPの「虹色Passions!」とEDの「NEO SKY, NEO MAP!」が流れる。
唯一の例外となるのは第一話のみとなる。第一話だけ、「虹色Passions!」は流れない。
その代わりに流れるのが優木せつ菜の楽曲である「CHASE!」だ。
「CHASE!」の歌詞は、「やりたいことがあったら迷わず走れ、夢を我慢するな」といった風の歌詞だ。
これはこのアニメのテーマとも合致しており、アニガサキという物語を始める為の歌としてはもって来いと言えるだろう。
ライブシーンのここすき
アニガサキが丁寧に作られた話というのは何度か語ってきたことだが、それはこのシーン一つをとってもそうだ。
主人公である侑ちゃんは、なんだかライブ会場が盛り上がってて面白そうという理由だけで、ライブ会場に走っていく。そしてたどり着いたライブ会場で優木せつ菜というスクールアイドルに魅了され、そこから一気にスクールアイドルという世界にハマっていく……
高咲侑というキャラクターの好奇心の強さ、行動力の高さをよく描いていると思う。
それこそ、「CHASE!」の歌詞のように走り出したのだ。
アニガサキはこういった比喩や揶揄を至る所に散りばめている。
物語を描写する上で、こういった「遊び」というのは余裕がないと作れないものだ。
アニガサキには特殊EDがない。
特殊EDや特殊OPの強さについてはオタクはよく知っていることだろう。
例えば、バトルモノの最終話でOPを流さず、ラスボスとの最終決戦で流す。
第一話のEDにOPを持ってくる。
そういった演出だ。
しかしアニガサキはそういった演出を全く使わなかった。
それこそ、第12話や最終話などはめちゃくちゃに強い挿入歌が流れるのだから、それをEDの代わりにしても良いと思う。
だが、アニガサキはそうしなかった。
特殊OPやEDというものは、燃える演出、粋な演出という意味以外にも、そこでOPやEDを流している分、尺を長く使えるという利点がある。
アニガサキは1クールで9人のスクールアイドルを描写するというその物語の構成上、OPとED以外で必ず曲を流す、尺を取る時間が存在する。
時間で言えば1分半やそこらだろうが、OPやEDで必ず使う尺があると考えるとどうだろう。
OVAでもない地上波のアニメに許された時間は、約25分だ。
そこにOP、ED、挿入歌、次回予告なども合わせた場合、消費する時間は5分程度だろう。
残った時間は20分である。
キャラクターの多さなども考えると、少しでもアニメ本編の描写に時間を割きたいと思うのが普通だ。
だがこのアニメは、この限られた時間でキャラクターの魅力を存分に描写し、比喩や揶揄を散りばめるという余裕まで見せている。
それはアニガサキという物語が非常に優れたバランス感覚の上で計算され、作られた物語であることの裏付けと言えるだろう。
するべき描写の取捨選択が非常に上手いのだ。
例えば、音楽を題材にしたアニメには必ずと言っていいほど出るであろう、作曲や作詞は誰がどうしてるの、といった描写。
アニガサキにおいては一切そういった描写はない。
※アプリ、「スクスタ」に於いては、主人公である「あなた」が全体曲を作っていたりする。
スクールアイドルという以上学生でもあるのだから、授業の描写などがあってもいいかもしれないが、それもフレーバー程度である。
せいぜいあるのは中間テストで「中須かすみ」が「22点」という凄まじい点数を叩き出した描写くらいだろう。
※22というとんでもない点数を見て作中一番と言っていいほど感情が出ている天王寺璃奈
このように、最低限の描写だけでも、物語はきちんと進むのだ。
それは言ってしまえば、現代社会ではない剣と魔法のファンタジー世界でのインフラはどうなってんの、みたいな話と同じだろう。
ファンタジー世界であれば、その世界の深みを増すためには必要な描写だと言える。しかし、ドラクエのようなRPGで下水道の話をされたってどうでもいいのだ。
ラブライブ!シリーズに男性キャラクターがほとんど登場しないのも、別に居なくても話が成立するからだ。
スクスタなどで語られているキャラクターの設定描写も、色々なものがカットされており、それは例えば愛さんの実家がもんじゃ焼き屋だったり、桜坂しずくが実は1年生でありながら転入生であると言った事、エマ・ヴェルデがスクールアイドルオタク枠だったりすることなどなど……
アニガサキはその優れたバランス感覚による取捨選択によって、最低限の時間で最大の描写をし続け、比喩や揶揄を詰め込む時間を生み出したのだと言える。
アニガサキに散りばめられたその比喩や揶揄、伏線と言い換えても良いが、それは非常に多い。
いい意味で気持ち悪いほど多い。日常描写に限らず、ライブシーンに至るまでそれはあり、わかりやすいもので言えば標識や横断歩道の信号の色、わかりにくいもので言えばライブシーンの背景に写っている花の花言葉に至るまで様々だ。
面白い作品は何度見ても新しい発見があるものだが、アニガサキは見直す度にそういう比喩や揶揄が見つかる。
もちろんオタクの無理矢理なこじつけ、いわゆるフロム脳のような部分も否定は出来ないのだが、アニガサキほど作り込まれたアニメだったなら「これも意図した描写なんじゃないか」と思える。
そういった部分もこのアニメの魅力と言えるだろう。
そしてこのアニメは、最近のアニメで言えば、「鬼滅の刃」や「無職転生」「呪術廻戦」のような作画の良さは無い。
だが、作画崩壊を起こしているようなこともなく、全編通して作画は安定している。
ライブシーンには気合が入っているし、ライブシーン以外の描写でも、キャラクターの顔面が崩壊しているという事は殆どない。(殆どないというだけで、ちょっと怪しいなと思うタイミングはあるが、それでもその回の一番重要な部分はきちんと描かれている)
アニガサキは「省エネ」をするのが非常に上手いのだ。
これも取捨選択が上手いからこそ出来る芸当と言えるだろう。
そして重要なのは、省エネをしているからと言って、手を抜いているわけではないということ。
会話パートなどのキャラクターをあまり動かす必要の無いシーン、止め絵演出をするシーン……それらのシーンに比喩や揶揄を入れることによって、物語の深みや説得力を増す事に成功しているのだ。
※これは朝香果林というキャラクターが実は勉強が出来ないポンコツタイプのキャラであることを描写している。「応援」の「援」が書けず、ひらがなで「えん」と書いてある。
作画コストや物語に使える時間など、使えるリソースを計算しきって丁寧丁寧に作られたアニメが、アニガサキなのだ。
少し話は変わるが、今の社会そのものが正常には回っていないのは皆が肌で感じていることだと思う。
この記事を書いている今でさえ、コロナによる緊急事態宣言が出ており、それはアニメ制作に於いても多大な影響を出している。
コロナの影響で制作進行に遅れが出て、放送を延期すると言った話はよく耳にしたことがあるだろう。
アニガサキに限った話ではないが、そんな中、予定通りに放送し、尚且つクオリティを落とさず最後まで放送しきったという事実がそもそも凄いのだ。
さて、アニガサキというアニメが非常に良く出来ている、というのは延々と綴ってきたことではあるが、次はこの物語がどのような作られ方をしているか、という話をしようと思う。
これは全ての回に当てはまるということではないのだが、例えば、その回で解決すべき目的、大目標があるとしよう。
3話の大目標は、「優木せつ菜も一緒にスクールアイドル同好会を復活させる」というものだ。
これは物語の大筋であり、この回はこれをどのように解決するか、というのを描写していくことになる。
その上でもう一つ問題が発生している。
一見本編と何ら関係のないものに見える問題だ。
それは、学園内に野良猫が住み着いているようなので、それをなんとかする……という、優木せつ菜の、生徒会長である中川菜々が解決すべき問題だった。
3話は同好会が復活する重要な回でもあるが、優木せつ菜というキャラクターを描写する個人回でもある。
住み着いている猫をどうするのか?というシーンで、優木せつ菜というキャラクターがわりとポンコツ気味であることが描写される。
生徒会長自ら、ジャージ姿で猫を追い回し、草や土で服を汚して泥臭く猫を追い詰める、という描写である。
生徒会長なのだから、自分でわざわざそんな必要をする必要がないにもかかわらずに。優木せつ菜が無駄にアグレッシブで非効率的な行動をとりがちというキャラクター紹介をここでしている。
しかし、だからと言って柔軟性がないというわけではない。
いわゆるお硬い生徒会長キャラクターではない、話がわかる人物ではあるのだ。
飼うのが不可能だからといって、校内に住み着いた猫を追い出したりすることはなく、猫に「生徒会お散歩役員」などという肩書を与え、野良猫を学校の1員として認め、住むのを良しとしたのである、
「これは屁理屈だけど、良い屁理屈だよね」とは愛さんの言葉だ。
3話に於ける少目標はこのように、屁理屈によって解決される。
そして大目標の解決方法もまた、屁理屈だった。
それは侑ちゃんが語った、「ラブライブに出る事によって問題が起きるなら、別にラブライブに出なくてもいいじゃないか」という屁理屈だ。
ここで、前の記事で語った「整合性ポイント」について書こうと思う。
ご都合主義的な描写に頼らなければストックされるというのが整合性ポイントだ。
大目標を解決する前に、少目標を解決する描写する。
少目標を解決した時と同じような方法で大目標を解決することによって、そこには繋がりが発生し、論理性が見えるようになる。
論理性があるという事は、物事を突拍子もない手段、ご都合主義に頼らずに解決出来ているということだ。つまり、整合性ポイントを溜めて、物語に説得力を出すことが出来るのだ。
アニガサキは度々このような手法を取り、物語全体の説得力を高めている。
言ってみれば暗喩や比喩も、「これからこんな事が起こりますよ、起こってますよ」というメッセージだ。事前に伝えることによって、こちらの心理的にも受け入れやすい状況を作りだし、それがさらに説得力や納得を生み出している。
説得力を生み出す方法というのは他にもあり、伏線を回収するのもそれにあたるだろう。
最終話でそれぞれのメンバーがやったライブステージ案の大元は、4話でかすみんが「どんなライブがやりたいか」という議題を出した時に、メンバーが発言していたことだ。
エマの「皆と輪になって踊りたい」、しずくの「ライブの途中でお芝居を挟みたい」、彼方の「お昼寝タイムが欲しい」
と言った内容は、そのまま最終話のスクールアイドルフェスティバルでそれぞれ話した内容の通りのことをしている。
このような積み重ねが、アニガサキという物語に深みを与えているのだ。
さて、アニガサキという物語の世界を一言で言うのならば、「優しい世界の優しい物語」と言えるだろう。
このアニメには基本的に悪意のある人物は存在しない。多少の例外……かすみんが悪戯をするようなことはあっても、本気で悪意のある描写(学校ではよくあるいじめ、こちらの話を聞こうともしない障害となるキャラクターなど)は存在しないのだ。
そして大きな理不尽もない。現実的な話として、「そういうこともあるよね」と納得出来る範囲のことしか起こらない。
そして、物語を進める上で発生する問題や理不尽も、上に書いたように、小さな問題を先に起こす事によってクッションとしての役割を果たしている。
最終話のスクールアイドルフェスティバルは虹ヶ咲学園だけでなく、他校や学校以外の施設を巻き込んだ大きなイベントだ。
それもなんのノウハウもない初のイベントであり、やはり問題は起こってしまう。
その時に起きた問題は、「機材トラブル」と「突然の雨」だ。
どちらも現実の世界でよくあることだろう。
機材トラブルの方は天王寺璃奈という有能キャラクターが無事に解決する。
しかし、突然の雨は、降っている間は為す術もなく、ただただ時間だけが過ぎていく……
それを解決する……というか、盛り上がる演出の為の踏み台として使うには、安易な道が存在していた。
アニガサキは、そのタイトルに「虹」を冠している。
雨と虹とくれば後はもう、奇跡が起きて晴れて虹が架かるという、コッテコテの演出をすれば間違いないだろう。
何ならラブライブ!2期の1話で穂乃果が「雨、やめー!」と言って、空が晴れた時のオマージュとして、そう演出するのが、ラブライブ!シリーズとして、アニメとしてわかりやすいだろう。
実際、アニガサキはそれをしても問題ないほどの整合性ポイントは溜めていたと思った。最後だけご都合主義だったね、でも終わりよければ全て良しじゃん、と、視聴者が思えるくらいには溜めていたと、俺は思っていたのだ。
だがアニガサキはそうしなかった。
雨は止まず、ステージを使っても良い時間はとっくに過ぎてしまった。
しかし、時間を過ぎても、観客はステージから居なくなっていなかった。
生徒会の副会長が学校側に掛け合って、あと1ステージだけ出来るように動いていたからだ。
そしてスクールアイドル同好会のメンバーは、会場に向かって走り出したのだった。
……これは安易な奇跡ではなく、人間の努力や善意による結果だ。
天王寺璃奈が、そのスキルを持って機材トラブルを解決したように、人間が行動したからこその結果だ。
それを裏付けるように、ダイバーシティに聳え立つユニコーンが、サイコフレームを共振させる。このアニメがサンライズが関わっているという理由でのみ成立する、卑怯極まりない演出だ。
この機体……ユニコーンガンダムは「可能性の獣」と呼ばれる事もある機体だ。
ユニコーンの作中で語られたセリフに、こんなものがある。
『人間だけが神を持つ。今を超える力、可能性という内なる神を』
OVAのユニコーンガンダムの最終話のサブタイトルが「虹の彼方に」である事も考えても、この演出は卑怯すぎるだろう。
理不尽なことがあっても、人は乗り越えていけるのだと示してきた。
そしてアニガサキは……
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のメンバーは、安易な奇跡により虹を見るのではなく……
真っ黒な夜空に、自分達の虹の輝きを写して見せたのだった。
というわけで中編終わりです。
本当は前編後編にするつもりだったけど、何かここで一旦区切りつけたほうがいいかな~って気分になってきたのでここで区切る事にします。
さて、この後に及んでまだアニガサキを見ていないのにここまで記事を読んだ人間が居るとは思えないが、もし居るのなら即刻見て、俺とアニガサキ考察バトルをしないか?
私と一緒に、夢を見ませんか?(カギ爪の男)
次の後編で一応終わる予定です。
アニガサキはガン×ソードだった、みたいなトンチキな理論を振りかざしつつ、どういう物語だったのかを書きたいと思っているので、皆読んでね!